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神様の後押しに気付けるか 日本勢の米初制覇を生んだ好奇心と感性【名勝負ものがたり】

歳月が流れても、語り継がれる戦いがある。役者や舞台、筋書きはもちろんのこと、芝や空の色、風の音に至るまで鮮やかな記憶。かたずをのんで見守る人々の息づかいや、その後の喝采まで含めた名勝負の数々の舞台裏が、関わった人の証言で、よみがえる。
第7回は1983年ハワイアンオープン。最終ホールでの劇的なイーグルで大逆転優勝を飾った青木功が、日本人初の米ツアータイトルを手にした1戦を振り返る。
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左ラフからの残り128ヤード。PWで打った第3打は、グリーンにワンバウンドしてピンの根元に当たるとカップに吸い込まれた。大歓声に包まれるワイアラエCC18番。1組前で先にトータル19アンダーでホールアウトしたジャック・レナーを1打ビハインドで追う青木功のスーパーショットは、ゴルフファンなら1度は見たことがある映像だろう。躍り上がって歓喜し、キャディのビッグ・ブライアンと肩を組みながらグリーンに向かう青木と、アテストしながら呆然とするレナーの姿の明暗も含めて。
「優勝する前の年くらいかな。練習ラウンドで言ったことがあるんだ。『このコースで20アンダー出るかなぁ』って。(中継していた)日本テレビの吉田慎ちゃん(慎一郎氏、アナウンサー)に、だったと思うけどね。毎日4アンダーで(通算)16アンダーのゴルフならいい感じ。18(アンダー)までは出る気がするけど、20アンダーは難しいかな、って。でも、結局優勝した時のスコアは20アンダーだった」と、青木はかつて自らターゲットにしたスコアを打ち明ける。
1980年全米オープンで、ジャック・二クラスと死闘を演じ、独特なパッティングスタイルが”オリエンタル・マジック“といわれるようになってから約2年8カ月経っていた。
6881ヤード、パー72(当時)のワイアラエCCを、初日、66でプレーして首位タイで発進。2日目はスコアを2つしか伸ばせず、トータル8アンダーで首位と5打差の9位タイに後退した。だが、3日目に65でプレーして再び首位タイに浮上。「3日目は最後にバーディ獲ると64だったんだけど、バンカーに入って65だった」と、単独首位を逃していた。エド・フィオリ、バンス・ヒーフナーとともにトータル15アンダーを並走し、最終組で初優勝のかかる最終日のプレーに臨んだ。
14番までに4つスコアを伸ばしてトータル19アンダー。15番はボールが木に当たるボギーで一歩後退。17番のバーディチャンスを決められず、そのまま18番に向かった。前の組のレナーがイーグルを逃したのは知らなかったが、バーディで19アンダーにしたのはわかっていた。1打ビハインド。バーディを獲らなければプレーオフに持ち込めない。
「(セカンドショットは)右のラフからスプーン(3W)持って欲をかいた。3打目は100ヤード前後にしときたかったけど(ピンまで)128ヤード残った。9番でも乗るけどちょっとフォローだったので(グリーンの)上の段に行ってしまう。バーディじゃなきゃダメだから、手前じゃなきゃ。そう思って使い慣れてたピッチングウェッジを持ったんだ」と決断の背景を明かす。
ひりひりする場面でのジャッジは、会心のショットにつながった。「後から(映像を)見たら生涯で一番いいスイングしてる。あんなにきれいなスイングをしたのを初めて見たよ。(距離的に)余ってないからいいスイングだったんだろうな」と、自分でも驚いたほどのプレーだった。
ボールがカップインした後はもう、無我夢中。「入った〜!逆転した!俺が勝ったんだ〜!バンザイ!って」と、勝利の美酒に酔った。「後から聞いたら、スコアカードのところ(アテストエリア)でレナーは『ジャック、ノーチャンスだ』といわれて『何が?』って言ったらしい。『イーグルだそうだ』といわれた後に『僕は若いからいいけど、サンディエゴで(テレビを)見ている両親が病気にならなきゃいいな』っていったんだって。それで翌年勝った(1984年ハワイアンオープン優勝)っていうのが面白い」と、敗者にも思いを馳せた。
日本人として初めてのPGAツアー優勝。それを生み出したものについて、こう分析する。「好きこそものの上手なれっていうじゃない。ゴルフの神様がやってくれたのかもしれないな。神様に(背中を)押されてるのに気づかない人もいる。意識はしないけど(自分にはそれがわかる)感性はあるんだろうな。9番じゃなくてピッチングウエッジで打ったのもそれがあるからだろう」。
2001年に丸山茂樹がグレーター・ミルウォーキー・オープンで優勝するまでの18年間、PGAツアーで優勝した日本人選手は青木功ただ一人だった。
当時は2月に行われていたハワイアンオープン優勝から5カ月後の8月に行われたビュイックオープンでも青木は優勝争いを演じた。2打差単独首位で最終日を迎えたが、最終日に65で回ったウェイン・レビに逆転され2位タイに終わっている。「ハワイで優勝してアメリカ本土でも勝てるかもしれないな、と思うのが早かった。そんなに甘いもんじゃなかった。何回か勝つとこ(寸前)まで行ったけどできなかった。でも、アメリカ本土でのプレーを経験して日本に帰って来ると楽だった」と、レベルの高いツアーで戦うことの意味の大きさを口にする。
この年、ツアーでの平均パット数は28.39でモリス・ハタルスキーに次ぐ2位。サンドセーブ率は62.8%で1位と、シーズンを通して実力を示した青木は、この後、しばらくPGAツアーで戦い続けた。
50歳になった1992年の9月からはシニア(現PGAチャンピオンズ)ツアーに参戦。ここでも9勝を挙げている。ハワイアンオープンの優勝が、その後の戦いにつながったのはまちがいない。ゴルフの神様を味方につけたスーパーショット。今はソニー・オープン・イン・ハワイと名を変えたが、同じワイアラエCCで行われる大会の度に、毎年流れる映像の裏にあったのは、青木の好奇心と感性だった。(文・小川淳子)
<ゴルフ情報ALBA.Net>

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