宮里藍が高校3年在学時にプロ転向をした2003年を境にして、ジュニアゴルファーを取り巻く世界は大きく変わったと、ブリヂストンスポーツのアマチュア担当者はいう。当時、直前まで他社のモニターだった宮里藍とプロ転向時に総合契約を獲得するという周囲がアッと驚く離れ業をやったのがブリヂストンスポーツだったが、それは同社にとって異例のことだったという。
「実は、藍さんのときのように、他社のモニターに声を掛けてひっくり返すといった例は自社としては本当にレアケースだったんです」(アマチュア担当者)
そうまでして藍ちゃんとの契約が欲しかったわけだが、ここで疑問として挙がるのが、プロ契約のときにレアケースの離れ業を出す以前に、なんでジュニア時代に藍ちゃんをモニターサポートしていなかったということだ。
「兄の聖志プロと優作プロはアマチュア時代からサポートをしてプロ契約もしていたのに、藍さんだけは縁がなかったんです。おそらく藍さんはジュニアの頃からダンロップさんのサポートを受けていたと思います」(アマチュア担当者)
また、ブリヂストンスポーツでは当時、中学生のモニターはあまりいなかった。「義務教育の時期に物を提供するということが果たして良いのかということを社内で議論したことがあります」とアマチュア担当は話す。「今では考えられない話ですが」と前置きした上で、「アマチュア担当は日本アマに行って『あの選手良いね』って目星をつけて、会場で名刺を初めて差し出すみたいな感じでやっていました」という。
2000年代前半までは、メーカーがサポートをする候補対象は日本アマに出るような大学生や社会人選手だったが、この流れが変わったのが、宮里藍がプロデビューした、03、04年以降だったという。
「それ以前はジュニアの大会に担当者を出すのはブリヂストンとダンロップ、ミズノ、タイトリストの4社くらいだったのが、藍さんのプロ転向後、ジュニアの選手の活躍が目立ち始めると、キャロウェイ、テーラーメイド,ヤマハ、ヨネックスなどのメーカーも大会に来るようになりました。そうなると各社、他社に先んじてコミュニケーションを取りたいがために、以前は全国大会で声を掛けていたのが、地区大会で声を掛けるようになり、それが地区予選になりというように次第に広がっていったと思います」(アマチュア担当)
確かに、宮里藍の活躍によってアマチュアゴルファーを取り巻く状況はガラリと変わった。しかしそれによって思わぬ効果も生まれたと担当者はいう。
「以前はクラブメーカーからサポートを受けるのはひと握りの選手であったのに、宮里藍さんの活躍が始まった2003年以降、私たちメーカーのサポートの裾野も広がり、さらにクラブのフィッティングの技術も進んだことにより、ジュニアゴルファーは自分に合ったクラブの提供を受けて使えるようになったわけです。それが現在のジュニアや若い選手のツアーでの活躍にも繋がっているという側面は少なからずあるのかなとも思います」
宮里藍の出現は、日本のジュニア環境の拡充に大きな影響を及ぼしていたのである。(取材・文 / 古屋雅章)
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