ドラコンプロの山崎泰宏は2021年4月24日、ドラコン大会の当日に心筋梗塞に見舞われるも、手術によって一命をとりとめた。しかし手術後1週間はICU内で12本の点滴で命をつなぐなど、まさに死の淵を彷徨う状態であった。
だが、その後、彼は驚異的な快復をみせ52日後に日常生活に戻り、さらには2か月後にはドラコンプロとして復活を果たすのである。
どうして“死なず”に済んだのか。そして、どうして以前と同じように“生きる”ことが出来ているのか。その理由を、多くの人に知ってもらい、少しでも自分のことに置き換えて考えてみることで救われる人が出て欲しい。それが生きながらえた自分にできることと山崎はいう。
今回は、心筋梗塞を発症した者に纏わる『運と不運』について考えてみた。
山崎泰宏は、小学校から高校まで野球をやっていた。高校生時代は甲子園にこそ行っていないが、出身地の長野県大会の打率で当時の記録を持っていた。またスキーの指導員の資格も持つなどスポーツは万能。少年時代から体は頑健で、ほぼ無病息災で51歳(当時)まで生きてきた。皮肉にも、彼がこの頑健な体を持っていたことがある意味、『不運』を招くことになったのである。
2021年4月24日の朝7時のことである。
「風呂に入っているときに、突然、左の脇の下から喉元に掛けてグーっと持ち上がる、反吐を吐くように込み上げる気持ち悪さを感じて。その後、胸の中で洗濯機がグワン、グワンと回っているような圧迫感が襲ってきたんです」
これは心筋梗塞の症状の表れなのだが、頑健な体の持ち主の山崎はそれくらいの違和感で病院に行こうという考えは沸かなかったのである。この『不運』に関して彼は、「心筋梗塞を発症して病院に運ばれて、自分は死ぬかもしれないと思った時に。『ああ、何でもっと早く病院に来なかったのか』と後悔をしました」という。
しかし、この山崎の普段の頑健さが良い方向に『運』を導いたこともあったのだ。
朝の風呂での発作が落ち着き、ドラコン会場に入ったものの、10時半に練習場で球を打とうとするとまた気分が悪くなってきた。その後、時間が経つにつれて具合の悪さが酷くなる様子を見たドラコン仲間と運営スタッフは、普段の山崎の頑健さを知っているだけに事態の深刻さを察し救急車を手配したのだ。
心筋梗塞は発症してから20分後に心臓の壊死が始まると言われており、1分でも早い迅速な対応がその後の生存率や予後の良・不良に大きく関わってくるというが、自ら救急車を呼ぶことには誰もが躊躇をするものだ。普段、弱音を吐くことが無い山崎の異変を察知し救急車を手配してくれた仲間がいたことは、大きく『不運』に傾いた運命を少し良い方向に引き戻すことになったのである。
長野県出身の山崎は、社会人時代にスキーの指導員の資格を取っているが、これがまた、傾いた『不運』をやや好転させることとなる。
「午後3時くらいになっても全然良くならないので、ふと手で首を触ったら指先に脈を感じなかった。それで『ヤバいこれ心臓やったかな』と思ったんです。スキーの指導員をしていたときに救命救急法で顔面蒼白の人の症状や蘇生法を習っていたので、わかったんです。それで救急車に乗ってすぐ救急隊員に『脈が無いから循環器系の病院に行ってほしい』と告げると、救急隊員も心電図を取って確認し、心臓の手術ができる大きな病院を調べて連絡を入れ、2件目の宇部興産中央病院に搬送されたんです」
山崎の記憶では、ゴルフ場に救急車が到着したのが16時30分、1件目の病院は断られ、2件目の宇部興産中央病院への到着は17時40分だった。ゴルフ場が山の中だった『不運』で病院までの時間を要したが、山崎自身が救命の心得があったために救急隊員の対応への助けになり、到着までの時間のロスを少なくできたという『運』があったのだった。
病院に於いても、時に『運』と『不運』は織を成す。2年前からの新型コロナウィルス感染症の特別措置で、宇部興産中央病院では心筋梗塞のような手術の場合、検査の結果、患者に陽性反応が出た場合は、他の感染者指定病院などに移ってもらうことになる。『運』良く、山崎は陰性だった。
急性心筋梗塞では、詰まった血管に対しカテーテルで治療を行い血管の再開通を施す手術が行われるが、山崎が搬送された宇部興産中央病院で、このカテーテル治療を循環器内科で行う担当医師の濱田頼臣医長は『運悪く』非番であった。その濱田医師はこの日、もしもの時に備えて休日でも遠出をせずに家の近所の公園で子供たちと遊んでいたのだが、そのとき、病院から電話が入った。
「当直の研修医から、胸痛があり急性心筋梗塞らしい人を受け搬送されるんですけれど、という連絡が入り、急遽、病院に向かいました」(濱田医師)
このとき、もし濱田医師が病院から休暇を得て旅行にでも行っていたら、山崎はさらに遠い他の病院に搬送されていたかもしれないことを思うと、『運』が良かった。
後に詳しく述べるが、濱田医師が執刀した手術は成功し、山崎は一命を取り留めた。難しい手術だっただけに、これが『運』が良かったのかと言えば、彼のカテーテルを使った医療技術に関しては「それは(他の医師でも)大差はないと思います」と濱田医師は控えめにいう。しかし、今回の心筋梗塞によって、簡単に言うとそれまで持っていた心臓の動きが半分くらいになってしまった山崎が、またドラコンプロとして復帰を果たせたのは、担当医が濱田医師であったという『運』が大きく作用したのは間違いないだろう。
「入院中に寝てるときに、何かの気配でふと目が覚めると濱田先生がいて、『あ。ごめん。起こしちゃった』と言うんです。見ると私服で、『非番だけど子供と買い物に出たついでに寄ってみた』と。おそらく、僕は入院している52日間、ほぼ毎日、先生の顔を見たような気がします」
担当医を選べない患者の真の意味での快復は、情熱をもって患者と向き合ってくれる医師と出会えるか出会えないかの『運』によっても大きく左右されることになる。
そんな濱田医師に山崎は、退院したらまたドラコンプロとして復活したい、それでなければ自分は生きている意味がないのだと自からの望みを語ったという。その望みを叶えるために濱田医師は理学療法士らとともに、最終的にゴルフができるようになることを想定したリハビリのプログラムを組み、それを1カ月かけて山崎にやってもらい、数値的にも納得を持てたうえで退院をしてもらったという。
濱田医師は、「心筋梗塞で亡くなる方はたくさんいらっしゃいますし、山崎さんよりもお若い方でも亡くなった方を僕は何人も見ている。だから山崎さんが助かったのはラッキーな面もあったと思う。だから、強い体に産んでくれた親に感謝してくださいと彼には言いました」。
山崎泰宏は心筋梗塞をいう『不運』に見舞われながら、プロスポーツ選手として現役復帰を果たすという『運』を得て人生の再スタートを切ったのである。(取材・文/古屋雅章)
<ゴルフ情報ALBA.Net>